九州山地の真ん中、平家落人伝説で名高い椎葉の里に、
日本でただ一軒、焼畑農業を続ける農家がある。
その担い手は椎葉クニ子さん、75歳。
クニ子さんの働く姿や暮らしのリズム、語る言葉、
そしてなにより手にかけ育てる作物の味に、
山の自然とともに生きてきた人間本来の姿が見えてくる。
 
山と暮らす人々
 椎葉村(しいばむら)は九州山地のほぼ中央に位置する山深い村だ。深い谷が幾重にも重なるように村をえぐり、人の往来も困難を極めるところ。こういう土地に生きる人が、暮らしの糧(かて)を森林に求めることは容易に想像がつく。それは3反と続く平地のない山里で、山の一部を畑に変え、収穫物を得ることにほかならない。そしてその農法の一つとして始まったのが焼畑である。
 焼畑農法とは、森林を焼き、その焼灰(やきばい)を養分として作物を栽培する慎ましやかな農法だ。しかし収穫が終われば、畑を休息させ、地力が回復し、森がもとに戻ったところで再びまた焼畑をくり返すという、自然の循環に従った、かなり気の長い農法と言える。
 ここ、椎葉村の向山日添(むかいやまひぞえ)に住む椎葉さん一家は、民宿を営みながら、この焼畑農法を守る、日本でただ一軒の家だ。目の前は深い谷。谷向こうの山腹が日当(ひあて)、南向き斜面で日当たりが良いから付いた名前だ。それにくらべて、こちら日添(ひぞえ)は、北向き斜面で日当たりが悪い。そして、谷の西側は尾手納(おてのう)。なんでも平家を追ってきた源氏側の追っ手が、あまりに深い山を見て「ここまでは平家も逃げられまい」と、追うのをやめた(納めた)ことから付いた名前だという。向山地区の3つの集落の名前からも、この土地の歴史や、自然に依存する人々の暮らしぶりがわかるような気がする。
 我々は椎葉さんのお宅に着くなり、さっそく山に同行させていただいた。クニ子さんは歩きながら道のわきに伸びた細い竹を手折る。草のいずれかを摘み取る。かと思うと、林道のわきに脚をかけ「パコッ」あるいは「ポコッ」という音とともに、淡竹の筍を折り採る。いったいいつそれらの植物を見分けているのか。歩きながら、話しながら、手は休むことなく山に触れている。林道から山に入ってもそうだ。雨ですべる斜面に気を取られている間に、クニ子さんはもう薮に飛び込みパコポコ音をさせ、薮から出てきた時にはカゴに数本、両手にも筍を携えていた。そしてまた林の中に飛び込んでしまう。再び林道に戻り、昨年の夏に火入れをしたという焼畑に案内してもらう途中には、側溝に溜まった土砂を長靴の踵で蹴り流し、つまった雑草は手で束ねて反対側の斜面に捨てている。動きは軽く、仕事をしていることさえ感じさせないのに、クニ子さんは確実に収穫を得、歩いたあとの路はきれいになっているのだ。
 
焼畑は4年で1サイクル
 クニ子さんが焼畑を登っていく。畑を登るとは妙な形容だが、そうとしか言いようのない険しい斜面。広さは「3反くらい」というから約3000平方メートルほど。大きな岩が顔を出し、言われなければそこが畑だと気付く人は椎葉以外にはいないのではないか。また、言われなければ雑草のような小さな緑の葉っぱが、今年種を蒔いたヒエだとわかる人もいそうにない。
 焼畑作りは、秋の「ヤボ伐り」から始まる。ヤボ伐りとは、森の木を切り倒し枝を払っておくことで、その翌年8月に天候の様子を伺いながらヤボ焼き(火入れ)を行なう。そして火が消えるやいなや、まだ燻ぶっているかいないかの内に、ソバの種を蒔き始める。ソバは「七十五日の夕さの飯にまにあう」と言われているほど成長がはやい。秋の訪れの早い山間部にとって、焼畑の1年目は8月初旬から10月までの短い時期に収穫できるソバが唯一の作物である。だから急いで種を蒔く。そうして冬を越した2年目からは、5月にヒエかアワの「穂もの」と呼ばれる作物の種を蒔く。2年目は鍬入れの回数が少ないために土が固く、ヒエやアワのような1度かるく土をかけるだけで発芽する作物が選ばれるというわけだ。そして3年目は「牛を追い込んでもわからんくらいに」背丈の高い雑草が生えるため、その雑草に負けないアズキが蒔かれる。アズキは「ねこぶく(ムシロ)八枚差し通す」ほどの、発芽力を持っていると言われる。祝い事などの赤飯にアズキが入れられるのは、こうしたアズキの生命力にあやかろうとするものでもある。さて4年目はこれと対照的に、雑草もあまり生えないので、今度はダイズが蒔かれる。ダイズは、二枚葉で発芽するので小さな木屑でもあろうものなら「この材木をどうして担ぎあげようか」と豆が嘆くほど障害物に弱い。だからダイズは最後というわけだ。これが焼畑一代、4年間のサイクルだ。焼畑では、年ごとの地質と作物の適性を考えて、このように種を蒔く順番が決まっているのである。そしてこのサイクルは変えられることはない。長年の経験が最も合理的な方法を生みだし、人々の暮らしを支えてきた。だから5年目以降はよほどのことがない限り作物は作らず、元の山に戻すという。山が地力を回復するまで約25年。再びヤボ伐りの日が来るまで森は静かに育つのである。
 
自然が告げるリズム
 実は焼畑は1箇所ではない。毎年、ソバ、ヒエかアワ、アズキ、ダイズが実る4枚の畑が1セットになり山には点在している。つまり毎年、1年目のソバ畑と、2年目のヒエかアワの畑、3年目のアズキの畑、4年目のダイズの畑の世話をすることになる。これはもう大変な労働である。そんな忙しい中でも、クニ子さんは山のそこここに楽しみを見い出しながら歩く。「これはニッケの味がする」と1本の草を食(は)ませてくれた。植物の知識も、子どもの頃は両親に、嫁いでからは義父母に、山仕事の合間に教わったもの。畑の畦(あぜ)に座り、一つひとつの草花の名前を覚えていく。今、クニ子さんが座る足元の雑草も、山の神が山の民に与えてくれる癒しの一つだ。山の自然は種蒔きや収穫の時季も教えてくれる。例えばソバ蒔きの時季は「土用に3日かける」。ヒエの収穫は「出穂見て20日」。ほかにも山を彩る新芽や鳥の鳴き声で季節を知るなど、数え切れないほどの示唆が言い伝えられている。クニ子さんが山に入る時にも時計を持たないのも、春夏秋冬、日の出から日の入りの、自然のリズムに体が同調し、時間の感覚を体が覚えてしまっているからだろう。
 焼畑はかつて椎葉村の農業の基幹をなしていた。しかし昭和30年代に入り、ゴムホースでダイラ(平地)の畑に水が引けるようになり、米が作れるようになった。さらに国の林業政策で植林に補助金が出るようになり、焼畑用地は次々に杉山となってしまった。「今は焼畑なんかしなくても生きていかれる」と、クニ子さんは言う。今は火入れにも役所に届け、消防団の手配もいる。手伝いには手間も払う。だが「ヤボには肥料も農薬も使わんですよ。焼灰の力にびっくりするくらいで、ヤボがきれいに焼けた時は畑一代、作物はものすご大きくなりますよ。ソバは(普通の)畑のものより粘りがあって香りも強いです」と言う。「なんの作物でも適作というものがありゃせんですか。私が守ってきた種(クニ子さんによれば「原始の種」)は、この土地に適っとるから。1年でも焼畑をやめたら、もうその種がなくなることになるでしょ。それに、日本で焼畑はここだけ。よけい守らにゃならん」。山は人が手を入れることで豊かに実る。山の手入れをいつも怠らないクニ子さんのあの身軽な働きぶりに山に対する畏怖が潜んでいる気がしてならない。焼畑の斜面で周囲の草を抜き取りながらクニ子さんは「楽しいですよ」とほほ笑んだ。8月、椎葉の山に今年も焼畑の火が入る。