 |
 |
【第6回】
昭和17(1942)年〜昭和20(1945)年
戦時下と終戦直後の西鉄 |
今回は太平洋戦争下および終戦直後の状況についてご紹介します。
1942年の西鉄誕生後、戦争は激しさを増し、ガソリンをはじめ電力や資材は勿論、相次ぐ召集により乗務員までも不足しました。バス部門は木炭や薪など代用燃料で運行継続を図ったものの、鉄軌道並行路線を次々と休止、修繕用部品の欠乏から稼働車輌も激減、統合時には1241両在ったものが終戦時には僅か180両となっていました。電車部門も節電のため福岡市内線の停留場削減(104↓59ヵ所)、北九州線も含めた急行運転(停留場の一部通過)やスピードダウン、大牟田線の急行列車休止などを行う一方、乗務員不足を補うため女性運転士や学徒動員による中学生運転士、国民学校を卒業したばかりの少年少女車掌が登場。輸送力確保に当たりました。
戦争末期には北九州各市や福岡、久留米、大牟田といった主要都市が大型爆撃機B29の空襲に遭い、線路、駅舎や車両が破壊焼失する被害が出ました。また筑紫郡に西部軍司令部があったことから大牟田本線筑紫駅付近などで、運行中の3列車がグラマン戦闘機の機銃掃射を受け、乗客の即死者64名、負傷者100名以上という痛ましい惨事も発生しました。
1945年の終戦により占領軍が福岡県にも進駐。長時間並んで待った挙句、窓ガラスを板で代用するなど資材不足で荒廃した車両に、すし詰め状態で乗込む一般乗客を尻目に、完全整備された占領軍専用車がガラガラで走ることもあり、敗戦の苦汁を味わう場面も見られました。
次回は大量の新造車投入や花電車の運転、遊園地の再開といった戦後復興の息吹をご紹介します。 |
|
|
↑焦土と化した大牟田市街地
|
↑女子勤労報国隊
(福岡市内線 / 1941年〜1945年) |
|
 |
|