豊かな自然が息づく水俣市の山里で、無農薬の茶栽培を志した若者がいた。
時代の逆風をものともせずに走り続けた。
自分が生まれたふるさとを見つめ、そこに生きることの意味を追い求めてきた。
やがて、人と自然に学びながら成長し、広大な野山を舞台にしながら、人と暮らしを楽しむ技を磨いている。
 
「高地」「在来種」「水俣茶」という逆風に立ち向かう。
  
  
 立春から数えて88日目の夜。これが八十八夜で5月1日、2日ごろを指す。普通の農家では種まきで忙しい時期となるが、茶栽培農家では、この前後から夏までが最大の繁忙期を迎える。一番茶、つまり春、最初に萌え出た新芽を大急ぎで摘み取り、揉んで煎って茶葉に加工して出荷しなければならない。それこそ眠る間もないくらいの忙しさだとか。何も、そんなに短期決戦じゃなくてもよさそうなものだが、日本人はひたすら新茶を珍重するため、八十八夜を過ぎると、お茶の売り値は下がる一方。だから4月下旬ころから茶栽培農家は修羅場を迎えるのだ。その後、出遅れた後れ芽を摘み、6月に入って二番茶を摘む。7月に三番茶を摘んだら、春から頑張ってきた茶の木を休ませ、草取りや肥料入れ、剪定と10月くらいまで手入れを続け、翌年を待つことになる。
 水俣市東部の山寄り、海抜500mの高地にある石飛地区。ここで無農薬無化学肥料で茶の栽培に取り組み、「天野茶園」を営むのが天野茂さん(50)。水俣市と聞くと海を連想するが、実は山地が75%を占め、ミカンと玉葱、そして水俣茶が名産品である。この石飛地区は昭和の初めに開かれた開拓集落であり、戦後、天野さんの父親の世代が、荒れていた茶畑を再び開墾したのだそうだ。
 高校卒業後、悩んだ末に家業の茶の栽培を継いだ天野さんだが、当時、すでに水俣病が社会問題となり、ふもとの街は大きく揺れていた。その影響で「水俣」の地名のついた飲食品は消費者に敬遠された。名産品の水俣茶も、しかたなく銘柄を伏せ、他の産地の茶に混ぜられて売られていった。
 当時も今も茶の品種は、甘さを引き出したヤブキタ種が全盛である。ところが天野さんの茶畑は、やや苦味と渋味のある、なじみの薄い在来種。「品種モノに植え替えるなら、県から補助金が出る」と聞いたが、茶摘みができるまでに4 4〜5年はかかる。その間、収入はゼロになるから、とても踏み切れない。
 さらに高地にある石飛では、温暖な低地に比べて、どうしても茶の芽の育ちが遅くなる。八十八夜を過ぎて、人気薄の在来種を市場に出しても、安い値しかつかない。
つまり育ちの遅い「高地」で栽培したなじみの薄い「在来種」の「水俣茶」という三重苦。このままでは、とても安定した生活は見込めない。そこで付加価値をつけるため、思い切って無農薬有機栽培に挑戦することを決意したという。それが今から22年前。天野さんが28歳のときのことだった。
 
水俣だからこそ、安心・安全なものを作るんだ。
 初めはとりあえず、とっかかりやすい畑から、無農薬を試してみた。するとカラスウリやカズラがはびこった。「除草剤をまけば根っ子まで枯れるばってん、ぐっとこらえて草取りに精を出した。きれいか茶畑に囲まれた中に、自分とこの畑があって。それがまるで草薮みたいで。ほんなこつ、すごかった」と、当時を懐かしむように話す天野さん。最初の年も、次の年も、収量がガクンと落ち込んだ。しかし、めげなかった。とにかく結果が出るまで続ける覚悟だった。そして3年目、徐々に収量が上向きはじめた。どうやら茶の木が持つ本来の力が発揮されたようだ。そこで意気揚々と農協に持ち込んだが、通常栽培の茶よりも安い値段だった。愕然とした。色が少し悪かったためだ。「こりゃ、売り方も考えんとダメばい」と痛感させられたという。
 その後も売れない時代が続いた。何とか自分で売らなければと、市内を行商して歩いた。農園の前に小さな直売所を手作りで建てた。すべてが手探りでのチャレンジだった。こうした努力を続けるなかで、少しずつ知り合いが広がっていき、ふるさとが抱える問題を身近に感じられるようになっていった。「この土地からは逃げられん。ここで生活せないけんなら、水俣の経験を活かして、安心・安全な水俣茶を作ることが大事だ、ということに気付いた。ようやく、自分のやってることに、自信が持てた」と天野さんは振り返る。
 無農薬有機栽培のやり方も、同じように手探りだった。虫除けや病気の予防をいろいろ試すうち、生命の循環に気付き、自然を活かした農法に落ち着いた。土づくりが大切と考え、菜種油粕や魚粕、発酵堆肥や刈り取った草などを肥料に入れた。しばらく続けていると、見えてきたことがあった。それは無農薬栽培は、高地で在来種を育てるのに適していること。高地は寒冷で虫の発生が比較的遅いため、一番茶はその害を免れることができる。しかも在来種、なかでも野生の実が落ちて根付いた実生の木は強く、病気への抵抗力があるということ。
 問題は虫が発生した後の二番茶だった。茶葉は虫に吸われると、色が赤くなってしまう。この解決策として、天野さんが目を付けたのは紅茶だった。静岡まで紅茶の製造機械を見学に行き、鹿児島の茶業試験場を訪ねて製造のコツを習った。さまざまな調査と試行を重ねて12年前、天野さんは独自の発酵方法を考案。その後、人気商品に成長する「天の紅茶」を生み出したのだ。
 
「天の茶屋」の囲炉裏端が、石飛集落の作戦本部らしい。
 
 
 90年代に入ると、世間の風向きに少しずつ変化が出てきた。水俣市では93年に全国に先駆けて「家庭ごみの23種類分別収集」がはじまった。98年には環境や健康にこだわったものづくりをする職人を、市が認定する「環境マイスター制度」が発足。もちろん天野さんも、第1期9名の環境マイスターの1人に選ばれた。「環境で苦しんだまちだから、環境を大切にするまち」をめざす「環境モデル都市」への取り組みが動き出したのだ。こうした市と市民の活動が全国から注目され、「水俣」がプラスイメージで語られるようになっていく。
 環境問題への関心が高まるとともに無農薬栽培が見直され、天野さんの茶も生協や通信販売などで、次第に販路が広がっていった。さらにヤブキタ種全盛のなか、逆に在来種の稀少価値が注目されて追い風となった。天野さんは低地にも畑を広げて品種モノの栽培も手がけ、7年前からすべての茶畑を無農薬栽培に切り替えた。「紅茶ができるけん、無農薬でもぜんぜん恐くない。むしろ、いろいろな茶葉をどう加工するか。それを工夫するのが楽しくてね」と笑う。
 環境問題の先進地・水俣市を見学に訪れる人が、近年、増えてきた。「こりゃ、石飛にも人寄りのできる場所がいるなあ」と、天野さんは5年前、茶畑の隣に「天の茶屋」を手作りで建てた。納屋のような風情と懐かしい囲炉裏が好評だとか。燃える火を囲み、近所の人や遠来の客がいっしょに話し込む。長男の浩さん(28)は「居ながらにして、いろんな人の話が聞けて刺激になる。ありがたいです」と囲炉裏の効用を語る。ちなみに年間にここを訪れる人が4〜500人というから驚く。話が盛り上がって深夜におよべば、みんなで雑魚寝。そんなおおらかな交流から、愉快なイベントのアイデアも生れてくる。間伐材で作った木車「だいごろ」で斜面を滑り降りる遊びは、いまや石飛の名物。タイヤチューブで水俣川を下る川下りは、子どもたちにも大人気のメニュー。新年、初日の出の参拝者に豚汁をふるまうもてなしを、集落のみんなで続けている。
 「夏までは必死に働いて、それから暇を見つけて、みんなでわっと遊ぶ。そんな暮らしができるのも、豊かな自然がまわりにあるから」と、天野さんはいたずらっぽい目を輝かす。「実はね。まわりの野原にはえてる薬草を混ぜて、健康茶をつくろうと思っていて。今、それを研究中です」と微笑んだ。
 あせらず、力まず、おおらかに。天野さんは石飛の自然と、昔からの暮らしの知恵に学びながら、野山をフィールドにして遊んでいるように見えた。
 
【取材協力】
■「天野茶園」
熊本県水俣市石坂川石飛 (0966)69-0918
【参考文献】
「現代農業 増刊 日本的グリーンツーリズムのすすめ」(2000年11月)/(社)農山漁村文化協会
「九州のムラ 通巻第3号」(1999年) 養父信夫編/九州のムラ出版室
◆参照ホームページ
水俣市
http://www.minamatacity.jp/
水俣病センター「相思社」
http://www.fsinet.or.jp/~soshisha/
 
 
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