雲仙焼  石川 照(いしかわあきら) 石川ハミ(いしかわはみ)
 
日本最初の国立公園・長崎雲仙。
そのゆたかな自然に抱かれた湯の町の一角に、
静かな人気を集める一軒の窯元がある。
その作品の独特のあたたかさは、
どこからいしかわあきら生まれてくるのだろうか。
 
普賢岳の大噴火がもたらした、恵みの釉薬

  九州に数ある温泉地の中でも、独特の清涼な雰囲気をたたえた雲仙。昔ながらの温泉旅館、洋風の観光ホテルやペンション、巨大な地獄。そしてなによりも、そのすべてを大きく懐に抱き込む奥深い自然が、この地の強力な磁場となっている。
 この雲仙の地に、そっと根を下ろしている「雲仙焼」という窯があることをご存じだろうか。雲仙焼が生まれたのは、1918年頃のこと。雲仙を下ったところにある海辺の町、小浜に窯を持っていた本多牧仙が雲仙小地獄に築窯したのが始まりとされている。近代雲仙焼の創始となったのは、1960年に雲仙古湯に築窯し、焼〆などの新しい技法を取り入れて独自の作陶の世界を切り開いた石川靖峰氏。今でも工房の一角に展示されているその作品は、土の素朴で力強い風合いや色合いを生かしつつも、随所に洋風とも感じられる洗練された造形が取り入れられている。「モダンでしょう。そういう時代でもあったんですね」と語るのは、靖峰氏に師事し、現在はその娘・ハミさんとともに、ご夫婦で雲仙焼を継承している石川照さん。
 現在の二人の作品には、もう靖峰氏の作品にあったようなモダンな線は見られない。しかし、どちらの作品も、土の素朴な風合いに依存しすぎず、骨太でありながらどこか洗練された空気感をたたえているのは、雲仙焼の”血筋“なのかもしれない。
 そして、そんな作品のもつ空気は、どこかこの雲仙という土地のもつ雰囲気と相通ずるものがあるように感じられるのである。
 雲仙と言えば、1990年の普賢岳の大噴火を思い出すという人も多いだろう。実はこの事件が、その後の雲仙焼に大きな影響を与えることになった。この時にさまざまな所で島原の人々の暮らしに、そして雲仙の自然に大きな被害をもたらした火山灰を、うわぐすりに使うことを照さんが思い立ったのである。
 最初、小さなぐいのみにかけて焼いてみると、紅い色が出た。引き込まれるようにいろいろな焼き方を試しているうちに、焼き物の中でも特に珍重される『窯変油滴天目』という独特の斑紋が現れたのである。時には赤銅色に、時には虹のような金属質の輝きの中に、美しい斑紋が浮かび上がる。とてもあの火山灰から生まれたとは思えないような、神秘的な輝きだ。そして、この油滴天目は雲仙焼の新しいシンボルとなった。

 
素材と深く対話する、科学者の目、少年の心。。
 しかし、この油滴天目は、誰でもこの火山灰を使えば焼けるという代物ではない。「うわぐすりとして使うのにはかなりいろいろなノウハウがあって、普通に焼いたらこういう色にならない。だから余計に疑われてしまうんです。『本当に100%火山灰なの?』って(笑)」。灰の扱い方、焼き方…照さん自身、気が遠くなるような試行錯誤を重ねて作り上げてきたのだ。初めて油滴天目の焼成に成功したのが1992年。十年たった今、「歩留まりはだいぶ良くなってきている」とようやく言えるところまでやってきたのである。
 「ずーっと考えているとある日突然、ぽっと浮かんでくる。それがとんでもないやり方だったりするんですが。でも今まで通りのことをしてたって、新しいことはできない。やってみて失敗したらまたそこから学んで、ということの繰り返し。案外まったく新しいことができるのは失敗から、ということが多い。自然界も、突然変異が環境にすごく適していたらそれがずっと残っていく。人間もそうかもしれないですよね。こんな裸のサルが生き残ってきたなんて」。
 そんな照さんを、ハミさんは「科学者みたいな人」と言う。「一つのことに集中して、仮説をたてて。今度はこうやって、温度を上げてみよう、薪を足してみよう…と追求していく。あれはスゴイと思いますね。でも、汽車ポッポを見て夢中になっている、少年みたいでもある」。
 照さんの頭の中には、すでに次の新しい焼き方のイメージがあるようだ。「今年、できるかもしれない。完成できればいいと思いますね」。
 雲仙焼の特徴はこの油滴天目をはじめ普賢岳の火山灰を釉薬に用いた焼き物と、焼〆。いずれも造形と素材を生かした焼き上がりの風合いが命だ。
 そんな二人が、特にこだわっているのが土。今はすぐに使える状態の土を業者から取り寄せることもできる。しかし、お二人は、あえて自分たちの手で原土から粘土を作る。土を水に溶いて、砂利を沈ませ、上澄みをすくう。それを繰り返して粒のそろった粘土ができる。
 ハミさんは言う。「焼き物というと、ろくろを回して、窯焚きをして、というイメージですが、実はそこに至るまでの絵にならない仕事がたくさんある。今は、それを電話一本で省くこともできるんですが、私たちが作りたいものにとっては、その見えない部分がとても大切だと思います。それをひとつひとつ自分の手でやらないと、自分たちの作りたいものにならないので」。
 
新しい土に挑戦、膨らむ期待。
 これまでは、地元島原半島の加津佐町の赤土と佐賀・唐津の土を使ってきた。そして今はもう一つ、照さんの手元には、昨年夏にやはり近くの岳という場所で見つけた白い土がある。
 「そこに昔トロッコがあって、耐火煉瓦用の土を堀り出していたという話を聞いて。ということは、火に強い土だろうと思い、掘らせてもらったんです。試しに焼いてみると、これがけっこう難しい土なんですね」。ろくろはむずかしくないが、焼き上がった時に、割れてしまったり釉薬が剥落してしまったりする。それをどういう風に解決するかが、照さんの今年の一つのテーマだ。この土の魅力は色と軽さ。厚くしても軽いのは茶碗の素材にはいいのだという。
 「例えば、ハモは昔は骨が多くて食べられない魚だった。それがなぜ京都で名物になったかというと、技術なんですね。骨が口にあたらないほど細かく切ってしまう。いい素材を、どうしたらおいしく食べられるかと考えて、使えるようにするのが技術。焼き物は半分か、3分の2くらいが技術なんです。どういう形をつくるかも大切ですが、どうしたらそれが焼けて美しいか、という」。
 一方のハミさんの今年のテーマは、「思い切り仕事をする」こと。長女の照砂さんがこの春高校に進学する。「子育ては、子どもが高校に上がったら一応いいかな、と。これからは、好きなことができるので楽しみ。今はとにかく土に触りたくて、仕事がしたい。焼き物は、中途半端にできそうで、できない仕事なんです。気が入ってないと、作品も生きてこない」。撮影のためにろくろを回していただくと、土に触れたとたんすーっと表情に凛然とした気がこもる。
 照さんは作家としてのハミさんを「女性らしくて力強い」と表現する。「なかなかいない。女性らしいというと普通は柔らかい、というイメージなんですが」。その言葉に表現された微妙なニュアンスが、ハミさんの作品を見ると「なるほど」と納得する。
 雲仙に生まれ育ったハミさんの作品は、あたかもその自然に育まれた木々や花々のように、その大自然の命を分け与えられて生まれ出て来たかのような生命感を持っている。「昨年は茶陶をしたんですが、今年は食器を頑張ってみたいな、と思っています」。
 ところで、弟子はとらないのですか?と尋ねてみる。「まだ、自分たちが何を作るか、で精一杯。この世界、四十、五十は洟垂れ小僧ですから」と笑った。