黒瀬杜氏 (くろせとうじ) 黒瀬宏樹(くろせ ひろき)
 
かつて故郷に代々、受け継がれてきた醸造の技を誇りとする男たちがいた。
焼酎づくりのすべてを采配した彼らは、「黒瀬杜氏」と呼ばれ、焼酎王国・九州を支えてきた。
いまでは杜氏たちの経験に頼る手づくり焼酎は減りつつあるが、
九州の西南端、野間半島にある「杜氏の里 笠沙」では、
伝統の焼酎づくりの技を、その味とともに未来へ伝えようとしている。
 
歴代の「黒瀬杜氏」の技が、焼酎王国を支えてきた。

  焼酎王国である九州の歩みを語るとき、忘れてはならない人々がいる。九州の西南端、薩摩半島から東シナ海に突き出た野間半島。その山間に折り重なるような棚田にかこまれて、川辺郡笠沙町の黒瀬の集落がある。戸数は約270戸、人口は約500人。この小さな集落こそ、焼酎づくりの技を代々、受け継いできた「黒瀬杜氏」の里である。
  焼酎には甲類と乙類の2種類があるのは、ご承知の通りである。甲類は無味・無臭に近い純粋アルコール、いわゆるホワイトリカーであり、酎ハイなどで飲まれることが多い。これに対して、原料となる穀類や芋類の独特の風味や香りを活かしたものが乙類、つまり本格焼酎である。ここでいう焼酎とは、500年を超える伝統製法を受け継いできた本格焼酎のことである。
  さて、もともと広い耕地に恵まれず、水田の少なかった黒瀬の集落では、農閑期に男たちが出稼ぎに行くのが常であったという。明治32年、法律によって焼酎の自家製造が禁止されると、販売を目的とした焼酎づくりのために、蔵元がつくり手を雇い入れるようになった。明治35年頃、鹿児島の蔵元に、たまたま黒瀬の3人の若者が働きに出て、焼酎づくりの技を習い覚えた。やがて3人は焼酎杜氏として、別々の蔵元で仕込みを任されるようになっていった。これが黒瀬杜氏のはじまりだとされている。以来、秋から春先の仕込みの季節になると、黒瀬の杜氏は親類・縁者の中から信頼できる者に声をかけ、蔵子を集めてさまざまな蔵元へ出かけて行った。やがて経験を積んだ蔵子の中から杜氏になる者が生まれ、さらに次の世代へとその技を伝えてきたのである。
  こうして豊富な経験に裏付けされた黒瀬杜氏の実力は、次第に高く評価されるようになり、黒瀬の壮年の男たちのほとんどが、杜氏を務めるほどになっていく。その全盛期は昭和30年代の半ば。杜氏と蔵子を合わせて、およそ300人余りの人々が、毎年、焼酎づくりに出かけていたという。当時、鹿児島県内には170前後もの蔵元があったが、そのほとんどに黒瀬の出身者がいたとされる。その活躍の場は鹿児島県内だけにとどまらず、九州全域はもちろんのこと、遠く山口や四国にまで及んだという。ちなみに同じ薩摩半島の西側にある日置郡金峰町にも、焼酎杜氏として知られた阿多杜氏がいるが、黒瀬の娘が阿多に嫁いだ縁から、焼酎づくりの技が伝わったものとされている。

 
「元の機械化が進むとともに、失われつつある伝統の技。

 ところが、昭和40年代へ移るころから日本は高度成長期を迎え、大都市圏では建設ラッシュがはじまって人手が足りなくなる。一方、焼酎の蔵元では、大量生産をめざして工場の機械化や醸造工程の近代化が進められていく。焼酎づくりで最も人の手と技、さらに経験が必要とされる麹づくりが、自動製麹機の発明によって機械化されたのも、ちょうどこの時代のことである。一人前になるまでに、少なくとも10数年はかかるといわれる焼酎杜氏。蔵子として地道な努力を積み重ねて杜氏をめざす人の数は、年々減りつづけていったという。さらに昭和50年代に入って空前の焼酎ブームが巻き起こると、近代化された工場での焼酎づくりが一段と進むとともに、手づくり焼酎を担ってきた杜氏の活躍の場は、次第にせばめられていく。
 このままでは黒瀬杜氏の技が失われてしまう。伝統の技を受け継ぎ、後継者を育てようと、笠沙町では平成5年に焼酎づくり伝承展示館「杜氏の里笠沙」を開設した。ここでは昔ながらの伝統手法による焼酎づくりが実際に行なわれていて、その一部始終を間近に見ることができる。
 この蔵の杜氏を務めるのは黒瀬宏樹さん(57)。苗字からも分かるように黒瀬の里の出身であり、この道に入ったのは20歳のとき。「叔父さんから誘われて、何となく」蔵子に入ったのがきっかけだという。はじめは樽洗いや片付けなどの雑用ばかり。早朝4時に起きて夕暮れまで、文字通り休みなしで仕込み作業に追われた。「いちばんつらかったのは、遊ぶ暇がなかったことですか」と笑う。すぐに仕込みの難しさと面白さに魅せられ、「毎日の杜氏さんの仕事を、見よう見まねで、少しずつ習い覚えていきました。いつかは自分も杜氏になる。そう決めていましたから」。一語ずつ、言葉を選ぶていねいな話しぶりから、その実直な人柄がうかがえる。やがて熱心な仕事ぶりが認められるようになり、「○○杜氏さんのところで勉強してこい」と、腕のいい杜氏について修行する機会も与えられた。そこでまた、新しい技に出会う。こうして黒瀬さんはさまざまな現場を経験しながら、次第に腕を磨いていった。そして40代にさしかかるころ、師匠だった故・片平國良杜氏から「あとは、お前だぞ」と言い渡されたという。
  はじめて杜氏として仕込みを任されたときは、正直いって不安だった。失敗のないよう入念に、細心に仕込み作業を進めていったが、それでも不安が消えなかった。「そんなとき、夢を見ました。先祖の一人が醸造タンクの横に座って、つぶやくんです。『大丈夫だがね』って。それほど、気がかりだったんでしょうね」と当時をふり返る。蔵元の社長さんに、出来立てを試飲してもらうと、「これなら、いける!」という評価。ようやく胸をなで下ろすことができたという。
 
味わい深い手づくり焼酎は、未来に復活するのだろうか。
 黒瀬杜氏の技を伝承する「杜氏の里笠沙」では、機械が導入される前の、昔ながらの焼酎づくりを守っている。自然通気による手づくり麹、一次もろみ、二次もろみともに甕仕込み、さらに木樽蒸留というのだから、焼酎飲みにはたまらない。1回に仕込む量は蒸し米150kgに、さつま芋750〜800kg。一升瓶で約400本分という少量生産である。「少量だからこそ、微妙な加減が必要になります。仕込みに敏感に反応するから、手が抜けません」という黒瀬さん。その日の天候や気温、原料の質などによって、発酵具合が変わる。だから、生きものである麹や酵母、もろみの育ち具合を五感でつかみ、機を逃さずに的確に作業することが求められる。「機械に任せるのと違って、細かく神経を使いますが、その分、ていねいな仕事ができます」と楽しそうに話してくれた。
 「杜氏の里笠沙」には、この焼酎蔵のほか、焼酎づくりの道具や資料、多彩な酒器や銘酒が並ぶ展示館がある。その中に黒瀬杜氏の由来とともに、歴代の杜氏の系譜を紹介した資料があった。師匠の片平さん、黒瀬さんの名前も見える。そこで、ずっと気がかりだった質問をぶつけてみた。「今も現役で活躍している黒瀬杜氏は、何人くらいいるのですか?」と。「はっきりとは分かりませんが、40人くらいでしょうか。蔵子を合わせてもせいぜい100人ほど」という答え。最盛期の3分の1にまで激減していることになる。
  では、いま焼酎は、どれくらい飲まれているのだろうか。平成12年度の国税局の資料によれば、本格焼酎と泡盛を合わせた消費量は、年間約32万kl、一升瓶に換算すると約1億8,000万本にも上っている。これを平成6年度と比べてみると、酒税が引き上げられたにもかかわらず、なんと30%も増加している。ちなみに日本酒は22%の減少である。焼酎ファンは確実に拡大しているのだ。これには大手の蔵元による意欲的な商品開発や販売努力が、大きく貢献したといえる。ところが、近ごろは小さな蔵元の、個性的な手づくり焼酎が注目を集めていると聞く。土地と人と伝統によって磨かれてきた黒瀬杜氏の技が、次の時代へと受け渡され、九州生まれの本格焼酎を世界に誇る銘酒に育てていく。そんな未来を思い描きながら、今宵もゆるりと、お湯割りといきましょうか。