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| 手から手へ、直伝で伝え継がれる三十三番の神話。 | |||||||
宮崎県高千穂町向山秋元地区。高千穂峡の雄大な景観に多くの観光客が集まる町の中心部から、車で30分ほどのところにある山里の集落だ。10月下旬、稲刈りもはかどり、山間の棚田に掛け干しを見かける頃になると、集落の公民館から日暮れとともに太鼓の音が聞こえてくる。夜神楽の季節が巡ってきたのだ。この地区の2002年の夜神楽は11月30日。毎年、旧暦の11月16日にいちばん近い土曜日の夜、と決められている。夜の8時、まず子どもたちと、指南役の大人たちが集まってきた。小学3年生から中学2年生までの4人。この地区に男の子はこれだけなのだという。やがて練習用の杖や太鼓が用意され、太鼓がリズムを刻み出すと、少年たちはまだ辿々しい習いたての舞を舞い始めた。大人たちが体に染みついた滑らかな動きで手本を舞う。それを見ながら、少年たちも少しずつ動きを整えていく。 神楽の舞は全部で三十三番ある。そのすべてが、テキストも何もないこうした『直伝』の方法によって数百年、伝承されてきたのである。夜神楽を舞うのはすべて男性。現在この集落では三十数名の男性が手分けして舞うが、1人で舞うものだけでなく、二人舞、四人舞と舞によって人数が多いものもあり、四番、五番と続けて1人で舞う人もいる。1つの舞の中でも役割によって動きが違うこともあるから、すべての舞のすべての所作を伝え継いでゆくのは並大抵のことではない。 「1年に1回の祭りじゃ、また次が回ってくる間に忘るっとですよ。年数が経つうちに少しずつ覚えていく」と言うのは、この集落の長老の飯干久雄さん。「実際、町内の他の集落では、舞い手が足りなくて他の集落と互いに加勢しあいながら続けているところもあります」。まだここは恵まれているほうなのだそうだ。舞い手にも、それぞれ個性がある。面をつけた舞が向く人、白装束の舞が向く人。面舞でも、手力男命と天鈿女命では性格が違い、ウズメは細めの人が静かに舞った方がいい・・・というように、各人の個性に合わせて、舞い手を選定していく。本番までの1カ月強、久雄さんら神楽保存会の中心メンバーは連日の練習と準備、そしてその後に繰り広げられる酒宴で、心身ともに多忙な日々を送ることとなる。 |
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| 「神遊び」の源流から、表情豊かな神楽が誕生。 | |||||||
現在、九州には宮崎県をはじめ各地の里々に、無数の神楽が伝承されているが、そもそもこの神楽とは何か。「神楽」の語源は、神座すなわち迎えた神の依りたもう場所を意味する「カムクラ」だと言われ、この言葉が最も古く登場するのは平安初期に著された『古語拾遺』だったとされる。「楽」は古くは「アソビ」と読まれ、古語におけるアソビとは神と人とのアソビ、すなわち鎮魂や神の霊魂を人に授ける神がかりの業を意味した。もともとは宮中で行なわれていたこの神がかりの業が、やがて舞として芸能化し、他のさまざまな信仰や芸能などの影響を受けながら現在の神楽の原型が形作られてきたのだという。 夜神楽は、氏神の神社から神を迎え、神を夜通し歌舞とご馳走でもてなして神と人が交歓し、神をふたたび社へ送る、という一連の儀礼からなる。これは神楽に共通する形であるばかりでなく、他の多くの祭りにも見られる祭りの原型とも言える流れだ。夜神楽がとり行なわれる家を「神楽宿」と呼ぶのは、すなわち神を招いて一夜もてなす場所だからであろう。つまり里の人々が自ら里を守る神を家に招きもてなす里神楽は、日々の暮らしを守り、収穫を約束してくれる身近な神との絆を確かめ守るためのもっとも大切な営みと言える。 この時期の神楽は「霜月神楽」とも言われる。霜月、すなわち旧暦11月は、収穫も終わり、太陽の光がもっとも弱まる冬至の季節にあたるため、すべての生命力が新しい年の復活に向かって、神を招き新たな力を呼び込むという意味が、この祭りにはあるという。 集落の人々が厳しい自然と対峙しながら、力を合わせて生きてきたことを思えば、いかに大きなエネルギーを年に一度の夜神楽に注いできたかも想像できるだろう。 現在、九州各地に伝わる里神楽は、手に鈴、扇、杖、御幣、笹や榊の枝などの採物を持って舞う「出雲系」と呼ばれるものが多く、多くの里神楽に見られる日本神話の物語を演じる構成は、江戸末期以降の国学の影響とも言われる。だが、特に九州山地沿いの山里に伝わる神楽には鬼面が登場する舞を含むものが多く、これは山伏たちが伝えた修験道の影響で、九州地方の神楽の特色の1つとされている。また、平家の落人伝説が伝わる宮崎県椎葉村の神楽には、平安時代の古い歌謡の名残や狩猟儀礼も混ざっているというように、各地各様の風土や文化が時代を問わず交錯し、様々な形で影響しあいながら、その土地の個性的な神楽を作っているのである。 |
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| 現代の暮らし、人とともに変貌しながら生き続ける。 | |||||||
| この日、少年たちの稽古は、1時間ほど続いた。終わりを告げられた少年たちは、久雄さんの前にちょこんと正座すると、「ありがとうございました」と頭を下げる。神楽を通じて育まれ受け継がれていく絆が、そこには表れていた。 「私も小さい頃は今頃の時期になると、麦畑を掘り返して、その新しく柔らかい土の上で、よく練習をさせられたものですよ。足形がついてよく動きがわかるから」。74歳の久雄さんも、やはり十代の頃から神楽を仕込まれたという。 「ここはまだ恵まれています。後継者がいますから。今の若い人は、こういうことにあまり興味がありませんからねえ。特に、昔ながらのやり方で、祝子者頭取を頭に厳しい序列があって、師匠と弟子というような考えでやっているところほど、若い人が離れていってしまうようです」。この地区では、早くから神楽保存会という組織に変えて、厳格で強制的な形ではなく、全員で盛り上げていこうというスタイルに改めた。 夜神楽の実施日も旧暦で定められた日に行なおうとすれば、普通に仕事を持っている人は厳しくなる。そんな現代の状況に合わせて、本来の日に近い土曜に変えるところが多いという。 「旧暦の16日というのは月夜なので、昔は都合が良かったんでしょう。でも今は、今の人間様がいいように考えて。やっぱり盛大に祭りができるような日がいいということで、町内のほとんどの集落で週末に変えています」。 時代の流れと共に、変わってきた部分は他にもある。 「昔は神楽宿の庭に張り出して『せり台』というのを作って、そこを若者たちが取り囲んで夜神楽せり唄というのを唄っていました」。そういう熱気も、今では見られなくなったそうだ。「昔はほかに娯楽がなかったし。若者たちは夜神楽があると言えば、何里もはなれた遠くの集落まで歩いて行きよったですよ。近頃は、よそまで行って、ということはなかなかしなくなったですね」。 一方で近年、ちょっと新しい展開もある。博多を訪れた集落の女性たちが、山笠を陰で支える博多の女性たちと懇意になり、その縁で男たちが互いの祭りに参加し合うという交流が生まれているのだ。女人禁制の祭りが、女性パワーをきっかけに新しい芽を出すというところがいかにも現代というべきか。こんな風に折々の時代を呼吸しながら、神楽は悠久の時を生き続けていくのだろう。 |